社会なるもの

「社会人」という言葉がある。辞書での定義は、職業を持つ人(学生は除く)を指す言葉、だそうだ。

私はこの言葉は実にグロテスクだと思っている。まるで、労働に参加していなければ社会の一員ではないような物言いである。職がなくても、子供でも、人であるならば誰だって社会という共同体に参加している。

社会人という言葉が働く人間に限定されるのは、大人は労働をしていなければ人にあらず、と暗に示したいのだろう。そうしなければ経済が回らないからだ。

現代人は、金を使って何かと交換する。ものが買われるから給料が発生し、給料が発生するから金を使うことができる。それを繰り返す。それによって、結果的に美味しい思いをするのは、いつだって”偉い”人である。弱者は少しの利益で細々と生活し、強者は弱者から搾り取った金で余裕を得る。金は天下の回りものと言うが、実際は上の方でぐるぐると回っているだけで、下にはちょろっとしか落ちてこない。

経済は発展を続けているはずなのに、我々は貧しくなる一方である。人手不足が叫ばれているのなら、一人への配分は多くなって然るべきだ。それなのに、一向に多くなる気配がない。我々が使った金は、得るはずだった金は、一体どこへ消えているのか。

学生のアルバイトなど、とんだ時間と労力の搾取だ。時間と労力を売って得た金で、何かを買って豊かになるのかもしれないが、その豊かさはきっと物的な豊かさでしかないだろう。もちろん、金に余裕があれば心にも余裕ができる。それも豊かさのひとつだが、なんだか納得がいかない。これは私が学生時代にバイトをせずとも最低限の生活ができていたからこう考えるのだろう、ということも分かる。

バイトをしなければ食うや食わずの生活になってしまう、そんな学生がいることも確かだ。バイトという単調で単純な仕事で得るものはあるだろうか。社交性や会社での立ち振る舞いは身につくだろうが、そんなものは就職してからでも遅くはない、と言える余裕がもはや日本にはないのだろう。

終身雇用が終わったことで、一人をじっくりと育成する手間をかけるコストが結果と釣り合わなくなっている。それ故に、会社は即戦力を求める。既に務め人としての基礎が出来上がっている人間を求めているので、バイト経験というものは会社にとってありがたいものなのだろう。

きっとすぐに、単調で単純な仕事はロボットが担う時代が来る。工場なんかは既にそうなっている。人間に求められるのは複雑な労働だ。しかし、それすらも、AIが奪いかねない。そうして労働からあぶれた人間は、「社会人」の座を剥奪される。弱者は立場を失い、強者だけが安穏と暮らすことになる。

自助が難しくなりつつある今、公助がより必要になってくる。つまり税金で弱者を少しでも救おう、という話だ。富の再分配がまさにそれだ。だが、強者は自分本位であることが多く(故に強者足りうるのだろう)、税金として金を毟ろうとすると海外に逃げて行ってしまう。

日本は最初に義務があり、後から権利を獲るような構造になっている。熟語で言うと堅苦しいが、義務は、~しなければならない。権利は、~してもいい、ということだ。子供が最初に学ぶのが義務だ。働きなさい。より高みを目指しなさい。それが社会を生きるということです。そう刷り込まれた後になってようやく、働いてもいいし、働かなくてもいい。成長を目指してもいいし、変わらないことを選んでもいい、と言われる。

そんなことを今更言われたとて、本当にそうだと心の底から思うのはとてもむずかしい。義務に従わなければならない、という強迫観念が我々を縛り付ける。

海外は日本とは真逆で、まず、~してもいいということを学び、その後で、しなければならない事柄を知るのだ。だからこそ、権利を叫ぶ運動が盛んなのである。

ノブレス・オブリージュ。高い社会的地位には義務が伴うことを意味するフランス語だ。海外の感覚で言えば、してもいいし、しなくてもいい事柄を為して得た地位と引き換えに負うべきものが増えるということだ。自分の意志による行いの結果として義務的行動を求められるのならば、それは受け入れられるだろう。義務が嫌ならば、高い地位を避けて生きればいいし、それが許されているのだから。

対して日本は、最初から義務ありきであり、地位の高低なんて関係ないということになってしまう。強いて言えば、弱者を救って名声を得る権利がある、程度である。それに興味を持つ人間がたくさんいればいいが、そうはいかないのが人間というものだ。義務に駆られてのし上がったのに、さらに多額の納税という義務を強いられてはたまったものではない。だから富の再分配が上手くいかないのだ。そうして強者と弱者の溝は深まり、強者から弱者への搾取は続いていく。

日本において生活保護が恥とされるのは、労働という義務を放棄しているように映るからだろう。もし権利が先行していたならば、そういう生き方もあるよね、私は働きたくて働いてきたから納税して助けてあげるよ、と言えるだろう。それがノブレス・オブリージュだ。

生活保護受給者の多くは、持病などがあって就労が難しい者や、詐欺などによって財産を奪われてしまった者たちである。ケースワーカーは、受給者には可能な限り経済的に自立することを求める。それが仕事だからだ。そういう仕組みになっているのもまた、やはり日本が義務の国だからだろう。働くべきだから、いつまでも保護に頼ってはいけない。

私は鬱の治療に限り、医療費が3割負担ではなく1割負担になる制度を利用している。その名は「自立支援医療」である。自立するのが義務だから、それを支援してあげますよ、ということである。精神を病んだ人間にまで義務を押し付けるのか。なかなかに絶望的な響きだ。

働くことのは義務である、という価値観があるから、労働を嫌悪することになる。やってもいいことがたまたま金になることだったからこれをやる、より豊かになってもいいから働く。権利によって働くのなら、きっと楽しいだろう。

学ぶことだって、義務だから嫌う人が多い。学んでもいいし、学ばなくてもいい。そう言われたならば、興味のあることは進んで知りたいと思えるし、興味のないことはまあそれなりにこなすだろう。

日本の教育が義務めいているのは、画一的な教育方法にある。日本は未だに兵隊を作り続けている。労働者という名の兵隊を。だから優秀とされる個性だけが持て囃され、劣等とされる個性は悪目立ちし、疎外される。

日本は”普通”が好きなのだろう。普通は平均値の言い換えだ。だから授業のスピードは平均値に沿って決められる。平均より上の者は退屈で苦痛だし、下の者はついていけなくてやはり苦痛を感じる。

飛び級制度があれば、得意なことはどんどん学べるし、苦手なことは留年してゆっくり着実に身につけることができるだろう。なにより、人には人の得意不得意があって、”普通”などというものはどこにも存在しないことを自然に理解できる。

”普通”、つまり平均値ほど胡乱なものはない。0点の者と100点の者しか居なかった場合、50点というどこにも居ない存在が”普通”ということになってしまう。そんなものは虚像でしかない。

なるほど、義務がベースだと平均値を算出する必要が出てきて、その結果、普通などというありもしないものを有難がる羽目になるのだ。あったとしても、それは多数決の結果でしかない。

あるいは、”こうあるべき”という理想像(イデア)としての普通だ。決して手の届かないものを目標にすれば、無能感が増幅すること請け合いである。

結果として、弱者は働かねば暮らしていけないので仕方がなく働き、それが平均値になるので、働くことが義務となる。平均値の上に飛び出たものは”偉い”存在になり、下に飛び出れば劣った存在になってしまう。劣っていることは恥であり、いいように搾取される対象ということである。だから更に、人は働かなくてはならない、偉くならなければならないと思わざるを得なくなる。

搾取搾取というが、労働において何が搾取かと言えば、分かりやすいのは、アルバイトの話でも述べたように、時間と労力が奪われることだ。そこに賃金という価値を与えることで、搾取されている事実を眩ませようとしている。だがそれは、一個人を一方的に値踏みして、価値を決めていることに他ならない。なんと失礼な話だろう。

世の中の富豪は、資産運用をして、時間も労力もかけずにさらに富を得る。全く眩暈がする。

搾取とは、言い換えれば権利の剥奪だろう。弱者は休んでもいいという権利を奪われ、休日出勤や残業を余儀なくされる。自由意志を奪われ、ただ命令のまま動くことになる。だから労働者は兵隊なのだ。

そもそも、なぜ決定権の大きさで”偉さ”が決まるのだろうか。決定権の大きさイコール責任の大きさでもあり、損失を産んだときには、責任を負うことになるから。それは分かる。その責任とは一体何だ?

責任を取って辞職します。だから何だと言うのだ。それまでに蓄えた財産で当分はなんとかやっていけるだろうに。最悪、底をついたとしても、生活保護によって救済される。これのどこが責任なのか。

名誉が傷つく。そんなものを有難がる奴の気がしれない。名誉なんていうものは、所詮自分の周辺の世間でしか通用しないのだから、自分のことが全く知られていない場所ならば名誉なんて無いも同然だ。

しかしまあ、社長ともなれば、万が一倒産すれば多額の借金を背負うことになる。だが、それにだって救済措置はある訳で、やはり責任とはなんなのだろうか、と振り出しに戻ることとなるのでこの話はやめにする。

このクソみたいな世界で、少しでも幸福に生きるには、自分の権利を自分で確認し続けることしかないだろう。義務だけがあり、権利がないと思い込むと、人はひどく息苦しくなり、ストレスが溜まる。本当は全ての権利があるのだ。義務などというものは、余裕のある人間だけが持つべきものである。

だから、私は権利によって、こうして文章を書き続けるし、生きていてもいいから生きるのだ。