深夜の駄文
午前も5時になろうというのに、未だ眠気の気配なし。
暇を持て余して駄文を書き散らす。脳の膿を出すような心地である。
エビリファイが四錠になってからというもの、驚くほどフットワークが軽くなった。そして睡眠時間も短くなった。酷い時は半日以上寝ていたというのに、今はむしろ寝つけないくらいだ。
鬱と付き合い続けて、何が健康で何が不健康なのかの線引きがわやわやになってしまい、これが果たして健康なのか、躁転なのかの判断が付かない。
だが、聞くところによれば、躁というものは無益なことを次々と思いつき、むしろ脳が回転しすぎてつらいことさえあると言う。他にも、自分の所持金を考えずに散財することもあるらしいが、3万円にしっかりたじろいだので、やはりこれが健康というやつなのかもしれない。
健康とはこんなに生産性のあるものだったのか。恐ろしささえ感じる。だが、ここまでドーピングしないと健康になれない自分のこともまた恐ろしい。
別れた友たちのことを想う。結局、他者を理解することなどできず、ただ理解したふりをし続けることしかできない。上辺で滑る会話。私はただ受け止めるだけ。
本音を聞いていてすら、私は友を理解して支えてやることはできなかった。上手く愛することができなかった。しかし、そこまで深く後悔していない自分が居る。なぜだろう。私は冷たい人間なのかもしれない。その場を取り繕うのが上手い代わりに、深く立ち入ることが困難。唯一無二の存在になどなれやしない。
それでも、孤独は感じない。私には常に私が居る。たったひとりの理解者が居る。それで良いではないか。
所属欲が希薄なら、承認要求もまた希薄だ。例えいいねが付かなくとも、誰かが見てくれたという事実だけで満たされる。
どこまでも深く、深く自分のことを知りたい。他者のことも知りたい。考察は比較から始まる。ならば、他者を知りたくばまず己を知ることだ。
人間というものは実におもしろい。興味深い。複雑怪奇、それでいて単純。個性と普遍性。ちょっとした差異と歪みが、その人をその人足らしめる。
死という絶対的な終わりが用意されていることは、幸いである。終わりがあるなら、安心できる。どこまでも無限に続き、ゴールが無ければ、不安になるから。つらいときは、息を殺して最期が来るのを待てばいい。楽しいときは、今日が最後だと思って、おもいきり楽しんでしまえばいい。簡単なことだ。それだけでいいのだ。
人生は旅のようなものだと言う。そして、旅の恥は掻き捨てとも言う。ならば、恥など常に掻き捨ててしまえばいい。だが、ひとの心というものは面倒なもので、プライドとかいうやつがそれを邪魔する。ときに、恥は死よりも恐ろしい。死はそこでおしまいだが、恥は尾を引く。それがいけない。
恥という感情は何のためにあるのか。失敗を失敗と認識し、同じことを繰り返さないためのシステムのように思える。だから、恥を覚えたときは、うんうん、そう焦らなくても、もう二度としないと誓うよ、と己に語りかければ良いのではなかろうか。
恥と照れは似ている。どちらも心臓がきゅっとなる。評価が急に変動することは、なかなかどうして落ち着かない。
ああ、部屋が寒い。手がかじかむ。空気が乾燥しすぎて喉が痛い。それでも、そんなところすら愛おしいと思う。私は冬を愛している。
冬は静かでいい。景色が白に染まるほど、心が安らぐ。夏は騒がしい。生命力が豊かすぎる。汗をかくのもいけない。汗ほど不快なものはないだろう。
冬は死の季節だ。死が近づくほど、脳は必死になる。その必死さが良いのかもしれない。心より先に、躰が生きたいと叫びだす。それにつられて、心も生きたがる。死と生は表裏一体なのだろう。
生きる理由。そんなもの、外には無い。どこを探したって無いものは無い。それはいつも、自分の内側にある。どんな些細なことだっていい。明日、数時間後、数分後、数秒後に何をしたいか。何を望んでいるのか。それが生きる理由だ。
どうしても死にたくなるときはある。もはや、死しか解決する方法は無いように思えてしまうとき。無責任に生きることを強制することはできない。それでも、本当に死以外の選択肢がないのか、立ち止まって考えてみたら良いと、そう思う。
自死は逃避だ。ならば、生きながらにして逃げることだって可能ではないだろうか。家財を全部売り払い、捨てて、電車で遠くまで行き、着いた先で漫喫にでも泊まりながら新たな住処を探せばいい。住所ができたら、適当なアルバイトに応募して、日銭を稼げばいい。荒唐無稽に聞こえるかもしれないが、死ぬのが怖くないなら、こんな突飛な事だって怖くないはずである。
学生。これは難しい。まず金が無い。金が無いと立ち行かないような世界になってしまった。それに、警察に補導されれば親元に返されてしまう。運良く善人に拾われても、その拾ったひとが誘拐犯として逮捕されてしまう。全く世の中はクソである。だからせめて、少しでもどこか、家でも学校でもない場所に居場所を作れば、少しは慰めになるだろう。
無能感と疎外感、そして痛みへの慣れによって自殺は完遂される、と誰かが言っていた。列車への飛び込みなんかだと三つ目は当てはまらないだろうし、前者2つが問題になるだろう。
居場所を作るということは、疎外感を解消するということだ。線路に飛び込むように、人の集まりに飛び込んでしまえばいい。塾なんかはどうだろう。事情を話せば、一番うしろの席くらいは貸してくれるかもしれない。児童館があればいいのだが、今どきは難しいだろうか。
図書館でもいいかもしれない。とにかく、ここは安全だと思える場所に行って、そこで呼吸をするのだ。呼吸をしている限り、人は生きてゆけるから。
それでも、何をやっても死にたかったら、死んでしまっても構わないと思う。熟慮して死を選ぶのは、人間の特権だ。その権利を使ってしまえばいい。ああ、きっとその瞬間ほど、すかっとすることはないのだろうな。