アプリボワゼ
昔から、楽しいや悲しいはよく分かるが、怒りだけはあまりピンと来なかった。
もちろん、怒りがどのような感情かは、思弁的には分かる。思い通りにならなかったり、侮辱されたりしたときに抱くものだろう。
だが、自分にとっての怒りとなると、途端によくわからなくなる。むかつくという言葉もあるが、それは怒りとはどう違うのか。そんな疑問が湧いてくる。
まず、感情は快と不快に大別できる。怒りもむかつきも不快に分類できるだろう。そこは同じである。そして、発生条件もほぼ同じだろう。
私がここ数年で強く不快に思ったのは、友と喧嘩したときと、父が私のデスクを組み立てようとしてよくわからんことにしたとき、それから教授の悪口を語る学生を見たときである。
ひとつめは、喧嘩なんて初めてしたものだから、親に相談はしたものの、あいつが悪いと影で言うことはなかった。後者はぐちぐちと母に話すことはしたが、その場ではむしろ困惑や悲しみに近い感情を抱いていたように思う。
怒りは爆発的、動的な印象がある。対してむかつきは静的な印象だ。つまり、怒りは怒りそのものであり、むかつきは怒りを理性で弱めたもの、と言うことができるのではないだろうか。そして他者を思っての怒りは義憤となる。
一番探り甲斐がありそうなのは、やはり喧嘩だろう。しかし、通りの良さを重視して喧嘩と表記したが、あれはきっと喧嘩ではなかった。
私の考える喧嘩の定義は、対等な二者間による、怒りのぶつけ合いだ。対して私は、怒りを抑え込もうとした結果、言葉と感情はねじ曲がり、恨みという形で発露された。なるほど、どうやら恨みは怒りのパターンのひとつらしい。
怒りに駆られた人間は、自分こそが正しくて、相手は間違っていると強く思い込む。しかし私は、相手が正しくて私が間違えていると思った。それは実際にそうだった。それなのに怒りもあるものだから、その矛盾によって恨みになってしまったのだろう。
怒りに恨みで返してしまったから喧嘩は成立せず、それで彼との縁が切れてしまったのだ。
元より、彼と私との関係性は歪になっていた。私から彼への感情は、友としての愛おしさから、哀れな人への憐憫と、愛を受け取った故の義務感に変質していた。もはや私は彼に仕えていた。だからこそ、彼に直接怒りをぶつけることは叶わなかった。
怒りのほうがよっぽど切れ味がよくて傷の治りも早いと、そのときは知らなかったのだ。
物心ついてから大人になるまで、喧嘩をする機会も怒る機会もついぞなかった。不快に思っても、困惑や悲しみに変換され、また、諦めることも多かった。
怒りは、他者に自己評価よりも低く見積もられたときに起こる。自己評価が高ければ高いほど怒りは発生しやすいだろう。「不当」の一言で説明がつく。一方、不安は自己評価が低い故に湧き起こるものだ。
幼少期の私は自己評価が低かったのかというと、そうでもない。いつだって自分が一番だと思っていたし、謎の自信に満ち溢れていた。だから、誰かに値踏みされるような環境になかったのだろう。実に恵まれている。
私の記憶には、こんなエピソードが刻まれている。幼稚園バスで家に帰るとき、必ず後ろの席に座る子に、毛糸の帽子の上にあるポンポンの糸を引っこ抜かれるのだ。普通なら怒りそうなものだが、私はそうはしなかった。
また、こんな記憶もある。同じく幼稚園時代、列に並んだときに必ず前に座る子が私の帽子のつばをしゃぶるのだ。それでもやはり怒らなかった。
当時何を考えていたかなんて覚えていないが、まあそういうこともあるか、と思っていたようにも、諦めていたようにも思える。
そんな幼少期を経て、ようやく、怒りという感情を身をもって実感し、制御の難しさを理解した。
怒りの厄介さは、伝播するところにもある。自分は怒っていなくても、相手が怒り続けているうちにだんだんとこちらまで苛立ってくる。そしてトラブルとなるのだ。
制御の難しいものは他にもある。それは不安だ。怒りは自己評価の高さに起因するが、対して不安は自己評価が低いからこそ発生する。故に、不安は怒りとは逆方向にある感情と言える。
不安に関するエピソードは枚挙に暇がない。嫌われてはならないから、上手く会話を続けなければならないのに、それができなくて焦るし、人前で発表するときは失敗してはならないから足ががくがくと震えるし、明日のことを想像するだけでも不安だった。
不安は無能感に端を発し、思考を暴走させる。対症療法としては、何かで気を紛らわせるのがいい。根治させるには、〝べき〟をできるだけ解きほぐし、自分のできるところから少しずつ伸ばしていくことを目標にするといいだろう。
怒りと不安の獣を飼いならしたい。あなたと仲良くなるために。