記憶と嘘の世界

さあ、疑え! 此世はフィクシオン

私の好きな曲、リコレクションエンドロウルの歌詞の一部である。ツミキさんの曲で真っ先に好きになった曲でもある。

言葉は心という曖昧なものを翻訳したものであり、常に本当のことは語られず、思考は恣意的で、どちらも作られたものである。

過去は全て記憶であり、記憶は主観や欠落によって歪んでいく。

今見て、聞いている世界すら、目や耳から受け取った信号を脳が再構築したものに過ぎない。

この世は虚構なのだ。全てが虚構なら、それは夢を見ているのとあまり変わりがない。ふわふわと、足元が覚束ない。

僕は何を以って僕を名乗っている?

時折わからなくなる。私とは一体何なのか。私の語る言葉は本当か? 全て作り物ではないか。何が本当で、何が嘘なのか。全てが嘘なのではないか。

私の語る言葉は常に作り物じみていると感じる。借りてきた言葉、態度。継ぎ接ぎだらけのフェイク。

笑いとは、ここで笑ってくださいという型がある。話している内容が面白いかどうかではなく、そのシグナルによって笑わされている時がある。それもまた嘘だな、と思う。

今というものは、起こった瞬間に過去になる。私達は常に少し前の過去を見ている。過去とは記憶であり、記憶は都合のいいものだけが残る。だから眼の前の全てを認識することは困難なのだ。

今こうして書き連ねている言葉すら、本当のことかはわからない。

本心とはなんだろうか。思考は言葉である。ならば、考えた瞬間にそれは作られたものとなり、本当を取り出すことは困難ではないか。

ただひとつ、真実があるとするならば、心が突き動かされた瞬間である。あの衝動だけは、嘘ではない。そう思うのだ。