どう生きるか

生きていくには健康であることが望ましいらしい。

健康とはなんだろう?

精神の働きやものの考え方が正常なこと。健全。

では、正常とは?

正しいとされる状態にあること。また、特に変わったところがなく、普通であること。

普通とは?

特に変わっていないこと。ごくありふれたものであること。それがあたりまえであること。

私の思う普通は、平均値、もしくは最頻値のことである。どちらにせよ、普通であることは必ずしも正しいとは限らない。その場で全員が赤信号を渡っていたならばそれが正しい、ということにはならないだろう。

正しいとは?

道理にかなっている。事実に合っている。正確である。道徳・法律・作法などにかなっている。規範や基準に対して乱れたところがない。

先程の例に合わせるなら、道徳や法律が信号だ。法律はともかく、道徳というものは曖昧である。つまり、各々が善い生き方を模索していきましょう、ということである。

そして健全とは、身心が正常に働き、健康であること。考え方や行動が偏らず調和がとれていること。物事が正常に機能して、しっかりした状態にあること。

だそうだ。要は中庸である。

しかし、善く生きること、中庸であることだけが人生ではないだろう。

そう、できることならば、私はしあわせになりたい。充実した生でありたい。何を以てしあわせとするか。〝社会の提示する幸せ〟だけがしあわせか?

私の思考は〝普通〟と〝べき〟に縛られてきた。その一方で、私の人生の半分はその逆であった。その矛盾が私を蝕んでいったと言えよう。その結果が〝べき〟、つまり義務への固執である。(責任、義務、そして権利を参照)

人間関係が希薄だった私にとって、友人関係は義務になった。私は基本的に受け身でしかコミュニケーションを取れない。だから余計に、やってきた者は離してはならないと思い込んでしまった。

友情は、常に共にあることだけが全てではない。近づいたり離れたり、ずっと離れてたと思ったら急に近づいたり。来る者あれば去る者もある。

外からやってきたものほどストレスになることはない。ストレスの語源は応力(物体が外力を受けたとき、それに応じて内部に現れる抵抗力)だ。義務は人生を助けるが、必ずしもしあわせに繋がるとは言えなさそうである。抵抗することは疲れる。

だからといって、全ての義務、全てのストレスを回避することは叶わない。人生、時にはやりたくないことだってしなければならない。

そういう時にどうストレスを受け流し、また発散するか。これが目下の課題である。

嫌々やっているという認識はストレスを産む。できるだけ楽しんでタスクをこなせれば、それだけでストレスは軽減できるだろう。

スキルアップとか、誰かのためとか、そういう動機付けも良さそうだ。

そもそもなぜ人間関係を築くのがストレスになったかと言えば、人間への失望がある。思春期に二度も最悪なものを見せられるのは、学校が世界の大部分を占める子供にとって絶望するに足る出来事だった。

三年間、人との交流が途絶え、私にとって他者は恐ろしいものという認識で固まってしまった。そして元来の鬱っぽさも手伝って、私は人と関係を持つことに対して恐怖を抱くようになった。

恐ろしいと思いながら人と接するのは、サービスでしかなかった。良いコミュニケーションをとり、同調しなければ、ひどい目に遭うに違いない。決して間違ってはならない。その考えがストレスを増大させた。

あのタイミングで大庭葉蔵に出会えたのは、本当に奇跡だったとしか言えない。人を恐ろしいと思いつつ、それでも人と関わることを辞める選択ができないひとが私以外にも居る。それは救いだった。

話を戻そう。

薬によって不安が軽減された今、会話はそこまで苦痛ではなくなった。回数を重ねることで、そこまで世界は悪いものではないと思えるようになったことも大きい。

未だに、というより、昔から本心を見せることができている気がしないが、少なくとも嘘ではないから、それで十分なのかなと思っている。

次にストレスの発散方法だ。私は歌うことが好きなので、歌に乗せて大声を出すのは効果的だろう。

仕事のことをすっかり忘れて何かに没頭するのもいいだろう。私の場合なら、絵や文を書いたり、本を読んだりするのが良いはずだ。勉強するのも良い。

しかし、それらをする元気がないときもある。そんな場合はただ音楽を流すだけでも、少しは変わるんじゃないかと思う。

何が必要なストレスで、何が不必要なストレスなのか。それを見極めることができればしあわせになれるだろう。しかし、それはなかなかに難しい。

ここまで書いたことは、当たり前のことなのかもしれない。それでも、時にひとは当たり前のことすら忘れてしまうことがある。当たり前のことこそ重要なことはない。

ひとつひとつ確かめていって、自分を丁寧に扱えるようになりたいものだ。