汚れた眼鏡

 色眼鏡で見る、というと、偏見や先入観をもって見ることを意味する慣用句になる。ならば、汚れた眼鏡はどういう意味になるだろう。眼鏡を洗面台で洗いながらそう考えた。
 色眼鏡の用法から、眼鏡=物事を歪ませるフィルターのようなイメージがあったりなかったりするが、近眼の私にとっては、むしろ遠くの真実を見せてくれる道具というイメージがある。さながら現代のインターネットのようなものだ。
 その眼鏡が汚れている、つまり視界にゴミが入ったり光が余計に反射したりする状態だ。また、手入れを怠っている現れでもある。
 メディアは遠い場所の真実も見せてくれるが、同時に嘘や虚構も混ざっている。それらが真実かどうか見極める力が落ちていること、これは汚れとして表すことができそうだ。
 また、手入れの怠りはそのまま情報収集の怠りに言い替えられるだろう。いつか使いたい表現だ。

 メタファーの話はそこそこにしておいて、実物の眼鏡は実に汚れやすい。
 普通に生活しているだけで1週間もすればもう埃まみれだ。だが厄介なことに、常時かけていると、太陽の元に出るまではその汚れに気がつきにくい。ネットやテレビばかり見ていないで、たまにはリアルの世界を見なさいということだろうか。全くそのとおりである。
 眼鏡の手入れは億劫だが、そういう億劫なことを丁寧に行うことが、ひいては自分自身を大切にすることに繋がるような気がする。
 眼鏡が存在しない世界を想像する。そうすると私は1m先もはっきり見渡せない障害者ということになる。遠近感も掴みにくくなる。
 日常生活はなんとかなるだろう。だが、例えば事務仕事ならば書類に顔をくっつけて読まねばならず速読など出来ないだろうし、パソコンのモニターにうんと顔を近づけて作業せねばならないからすぐ疲れてしまうだろう。
 駐車場に車を止めた日には、何列目の何行目だったかを正確に覚えておかなければ辿り着ける気がしない。というかそもそも運転できないか。
 眼鏡でも矯正できず、そんな世界を実際に生きている人も居るだろう。
 もし、みんなが近眼だったらどうだろう。まずウホウホしている時代に遠くからくる捕食者に気がつかずに全滅してそうである。
 運良く生き残ったとして、敵軍と味方の区別が付かなくて乱戦になりそうだ。実際に敵軍に誤って帰還した人が居たような気がする。その人は近眼だったのかもしれない。
 たまに現れる視力の良い個体は占い師のごとく扱われるだろうな。文字が発明されたときは、大きい記号のようなものになりそう。間違っても漢字は生まれなさそうである。
 嗅覚など、他の五感が発達している可能性もありそうだ。
 逆にみんながすごく視力がよかったらどうか。まず我々にとっての普通の視力の人が近眼扱いされ、我々近眼はとうぜん障害者となる。
 遠くまで鮮明に見えるということは、解像度が高いということだ。脳みそが疲れそうである。写実画なんかはとても細い筆で細かく細かく書き込まれていそうだ。
 人類は五感のうち8割を視覚からの情報に頼って生活しているというが、視力が良ければその割合はさらに高まるだろう。視覚に関するエンターテイメントが活発になり、逆に音楽や食の文化は今ほど発展しないかもしれない。
 こういう想像をするのは楽しい。今後もたまにやっていきたい。

 今日はよくある休日だった。
 昼頃に起きて、切ったバナナにヨーグルト100gをかけて食べ、ロイヤルミルクティーを飲む。
 父の運転する車で街へ繰り出す。ファストフードで昼を済ませ、スーパーで一週間の食材を買い込む。
 今はありきたりで書く必要もないと感じる日々も、いつかは得難い日々になるだろうと思い、今日を記しておくことにした。来週は似たような日かもしれないけれど、来年は分からない。
 永遠にも思える一瞬を我々は生きている。