がらんどう
リモートで講義を受けた。なんということはない100分。だがひとりで居ると、この100分に立ち向かう気力がてんで持てない。
怠惰だと罵ってくれて構わないし、私もそう思うのだが、布団から一歩も動けなくなるのは怠惰とはまた別の何か、つまり鬱だと思わなくもない。
なんでもかんでも鬱のせいにしては、回復するものも回復しないだろう。だが、なんでもかんでも自分の責任にしたら、また押しつぶされてしまう。むずかしい。
高校生の頃に戻りたい、と思った。あの頃もあの頃でろくでもなかったが、それでも今よりは満ち足りていた気がする。今はなんだか虚しい。
そう。心が、がらんとしていた。良く言えば穏やかなのだが、この穏やかさが逆に落ち着かなかった。要は刺激に飢えている。だが、他者からもたらされる刺激は、私には強すぎて参ってしまう。締切の類も勘弁願いたい。わがままだな。
しかし、よく思い返せば作品鑑賞や読書はそれなりに行っているわけで、ならばこの飢えは一体何なのだろう。
なぜ過去に戻りたいと思ったか。それは己の内部から湧いてくるものたちが恋しいからだ。ならばこの飢えも、つまりそういうことだろう。
ここ数年、筆の早さが落ちているのも、あまり考えが湧いてこないことに起因する。
あの頃と何が違うのだろうか。
端的に言えば、絵を描くことよりも画力を伸ばすほうが楽しかったのだろう。あの構図を描けるようになりたい、このキャラクターを描けるようになりたい、と。しかし、ある程度の画力が手に入ると、あとはどこまで厳しく詰められるか、という話になってくる。
おそらくここから先は、感覚ではなく知識が求められる領域だ。
方向性も決めなければならない。キャラデザか、ストーリー性か、職人のごとく同じクオリティを出せることを目指すか。ともかく、今のままでは筆を折ることになるだろう。
もちろん、先を目指さずとも描き続けることは可能だ。ただ、現状描けていないことを鑑みれば、必然先に進むしかないという結論に至る。
キャラデザに関して言えば、手癖で出せるデザインは一通り出し切ってしまったから、よそから上手くパーツを盗む技術が求められるだろう。
あとは、あえて同じキャラを描き続けることで、マンネリ化を防ぐために様々なアイデアを駆使せざるを得ない状況に追い込むのもアリだ。
絵については、とりあえずここらへんでいいだろう。あとは試すだけだ。
次に、脳内が静かすぎるのも虚しさの原因であると考える。これに関しては、日記を書くことで埋め合わせが可能なので、なんとか脳みそを絞っていきたい。実際、こうして書き始めることで初めて思考が届いた部分が多分にあるので、有効性は認められる。
こうして今日も無事に寝る時間になった。人生は寝るまでの暇つぶしである。
要するに、暇を暇だと認識できるようになってきたということだろう。