パズルのピース

ここ数日は肉体が思うように動かず、丸2日ほど寝て過ごした。全く使い物にならない。確実に、日に日に筋肉が落ちていっている。ひとりでいても栄養失調かなんかでさらに不健康になりそうだったので、実家に戻ることにした。

特急に揺られてうつらうつらとしながら、人間はパズルのようなものだな、と考えていた。

ひとつの言動はひとつのピースで、その人を構成する要素であると同時に、そのピースだけではすべてを理解することはできない。

叱られることは自分の行動を否定されることであるが、それはひとつのピースを否定されただけで、決して他の全てまでは否定されていないのだ。そう論理では分かっていても、認知の歪みによってすべてを否定されてしまったような気持ちになってしまうのもまた事実だ。

逆に、成果物を褒められたとしても、それもまた1ピースでしかなく、自分の人格とは関係がない話だ。

論理と認知をどう擦り合わせるか。これはもう、論理を己にこんこんと言い聞かせるしかないだろう。自分の中の獣を飼い慣らすには、地道な躾を行うしかない。人生はそのためにあるとすら思う。

また、パズルを端の辺から埋めていくのが攻略の鍵となるように、人間もまた輪郭、つまり肉体があるからこそ、そこに魂が宿っているとも思う。肉体の形によって求められる人物像があり、だからこそ自分の思い描く人物像に近づけるためにファッションやメイクは多種多様に存在しているのだろう。

私の場合、伝えたい自分というものがほとんどないので、人畜無害を装うことしかできずにいる。それが社会に馴染むために手っ取り早いからだ。

物理的に近くにいる存在に、私のことを分かってほしいとはあまり思わない。なんなら今はもう、ネット上ですらどうでもいいと思い始めている。だから、この日記は未来の自分に宛てた手紙のようなものだ。

どうせ真に分かり合うことなどないし、私は他人に愛着が持てないし、ならば上辺だけ綺麗に繕って綺麗な思い出だけを残して去っていくのがお互いのためになるような気がする。

そもそも人はなぜ自分の話を自発的にするのだろう。生まれてこの方、そういった仕草をしたことがないので全くピンとこない。自分のことを知ってほしいと思うのだろうか。それとも仲良くなりたいと思っているのだろうか。分からない。

分からないが、興味がない訳ではないので、好奇心のみで人付き合いをしているというのが現状だ。

この好奇心も個ではなく、人間という生き物全般に対してのものなので、時間が経てば関係は消滅するし、好奇心を上回るほどの嫌なことがあればあっさり切り捨てることが可能になってしまうのだろう。

果たしてこの生き方は寂しいものだろう。しかし、私は私として存在しているだけで満ち足りていると感じているので問題はないし、他者の価値観は書物や動画から得られるのだから、わざわざ自ら対話する必要性も感じられない。自分の考えはこうして日記としてアウトプットすれば良い訳だ。

なかなか負け惜しみにも聞こえるが、普通でないのならイコール負けとは思いたくないので、私は私の生き方で幸せになりたいと思う。