道は後ろにしかない

今日はコメダでたまごドックを食べた。相変わらずコメダの食べ物はどれも大きくて、とても満足感がある。卵とマヨネーズにデミグラスソースは思った以上に相性が良い。

ミニというには大きいサラダをつつきながら、そういえば最近は好き嫌いせずに大方のものを食べられるようになったな、と改めて気がついた。

少しだけ大人になった気がする、と言うと、偏食を子どもじみているとする価値観だな、とも思う。同じ食材ばかり食べていると栄養が偏るから色々なものを食べたほうが良い、という要求から発した価値観なのだろう。

なぜ嫌いな食べ物があるかといえば、毒や腐敗への警戒の本能と推測できる。苦味や酸味なんかはとくにそうだ。柔らかい食感が苦手という場合も多い。その本能を、理性、すなわち安全であるという知識と経験によって食べられるようになる。

本能に次いで理性と対比されるのは感情だが、これを適度に抑えて正しいかたちで伝えられる技術が理性だ。この技術はアサーションと呼ばれ、そのための訓練も存在している。それくらいむずかしいことだ。

大人とは何か、と問われれば、感情と本能を抑えられる知識と経験、技術を身に着けた理性的な人物、という答えになるだろう。

大人になることも大事だけれど、子どもの気持ちを忘れたくないとも思う。

理性はロゴスとも呼ばれ、ロゴスはイデアという唯一無二の理想を説くためのものだ。つまり、あまり理性的すぎると本来の自分との乖離が起きてアイデンティティが曖昧になったりストレスになるのではないか、と思う。

大人になる必要がある状況というのは、仕事上での関係や公の場に居るときなど、社会的な行動をしているときだ。

なんのために群れて社会を形成しているかといえば、我々は1人では生きられない生き物だから、共助や公助の仕組みを維持するためであり、それを受け取るためである。また、それぞれの個性を活かして分業し、1人では成し遂げられない大きな仕事を成すためでもある。

要は、人間として生まれた以上は社会をやるタイミングがある。しかし、それ以外でまでも大人である必要ってあるのかな、という疑問もある。

だからこそ、友達と呼ばれる関係はお互い子どもになることが許され、そして時に感情的になって喧嘩をすることもある。

ツイッターではブロックという機能があるから、トラブルが起こったらブロックしてしまうことが可能で、だから友達を続けることはむずかしいと感じる。

そんなこんなで友を一人失ってからというもの、己の身の振り方を考えることが増えた。

私がもっと大人であったら、と何度も己を責めたが、前述の考えに至ってからはどうしようもなかったな、としか思えなかった。

人生において、どうしようもないことはきっといくつもある。できなかったことよりも、できたことを数えろ。MIU404の陣場さんの言葉だ。

理想を目指して、身を壊して、理想の人間などという存在にはなれないと知った。私は私として生きていくしかない。なにせ、中学高校に通うという人生の正規ルートから一度外れた身だ。ならば、はぐれものとして生きていくしかないだろう。

さて、そうなると、どう歩んでいけばいいのだろうと悩むことになる。私らしい生き方とはなんだろう。

つい正解を探してしまうけれども、きっと道と呼べるようなものは未来にはない。あるのは過去、私が歩いてきた場所、その道だけだ。正解の経緯がないのなら、標を見つければいい。それに向かって歩いていけば、自ずと道が出来上がる。

将来の夢なんて昔からなくて、周りがお花屋さんやケーキ屋さんと言っているから私もそう答えていた。本当は何にもなりたくなかった。今この瞬間が楽しかったから。

だからなりたいものよりも、背伸びをすれば出来そうなことをとりあえず目指してみようと思う。そんなわけで、イラストに関心があるとこから背伸びをして、デザイン関連の勉強をし、あわよくばそれで飯を食おうというのが当座の目標だ。

人間関係をどうするかについては、無理をして理想に合わせていた部分はどこなのかをまず知る必要がある。現在地が分からなければ、どこに進めばいいのかも分からないから。だからこれは追々考えるとしよう。カウンセリングも必要だな。面倒くさいが、しかし必要なことだろう。

やるべきことは決まった。今日からまた、ゆっくり一歩ずつ歩いていこう。