連想と未練のはなし
田んぼと田んぼのすきまでバスを待っている間、性懲りもなくまた、友と別れることになった原因を考えていた。
おそらく一番ヒートアップした段階で「一回通話しないか?」と言えればまた違う結果になっていたのだろうな、と思う。私が通話に苦手意識を持っていなければ、そもそも、もっと前にお互いの認識を擦り合わせておけば……。何を考えても、もはや後の祭りでしかない。
ではなぜ私が通話や電話の類を苦手としているのか、古びたバスに揺られながら考える。
コミュ障だから、と言ってしまえばそれまでだが、ばかのふり然り、様々な要素を孕んだそれを一言でまとめてしまうことで問題が見えなくなっているな、と思う。それゆえにキャッチーな言葉として広く使われている。
ひとつは、雑談がとても苦手である。
話題が何ひとつ思いつかない。人といると頭が真っ白になってしまう。私は日本語を聞き取るのが苦手でしょっちゅうトンチンカンな聞き間違いをするので、聞くことに集中しないとちゃんと聞き取れないからだと思われる。
しかし書き出してみると、そこまで気張る必要もないな、と思える。分からなかったときに聞き返せばいいだけだ。聞き返すことは失礼でもなんでもない、ただの会話の一部だ。むしろ、ちゃんと話を聞こうとしている証拠にすらなるだろう。
もうひとつは、暇なときの脳内が音楽で埋め尽くされていることだ。ひとりでいる間も、景色や過去からあれこれ浅く思考を巡らせていれば、自然と会話のネタも湧いてくるのではないだろうか。これは憶測でしかないが。
外に目をやる。水路に流れる水が朝日に照らされてきらきらと輝いていた。きれいだ。目の前の座席に視線を戻す。ゆるいパーマがすてきだ。ヘアアレンジって難しいよね。車内を見渡す。今日もあのおばあちゃんが乗ってるな。元気そうでよかった。隣を見る。学生が数学の課題を見直している。もう数学の内容を理解できる気がしない。
会話とは連想そのものだ。流暢に喋るAIも、莫大な情報から連想を連ねているに過ぎない。そして我々も。
一般に言う「うつ」には、鬱病と鬱状態が混在している。鬱病は気分障害に分類されるが、その症状のひとつに思考が障害される要素もあり、これを精神運動抑制と言う。まぁこんな名称は覚えなくてもよくて、とにかく思考、つまり連想の力が弱まるところがミソだ。
この連想力の弱まりは、鬱病でなくとも見られることがある、と推測できる。なぜなら他の症状、意欲の低下や抑うつ気分も、鬱病でなくとも現れるからだ。
よく言われる「うつ」、鬱状態は主に抑うつ気分のみを指すことが多いが、鬱病には気分以外の障害もあり、コミュニケーションを取る上で厄介なのは先ほど挙げた連想力の弱まりだ。
思考と会話は連想そのものなのだから、そこが障害されてしまえばそりゃコミュ障にもなろうというもの。
ただ苦手に留めておくだけでなく、こういったハンディキャップがあると認識することは少し気を楽にすることができるのではないだろうか。その上で努力するかしないかは本人次第だ。
さて、ここまで私が会話を苦手とする理由を考えてきたが、次に考えが向くのは、友とは何か、だ。
私は本当に彼(これに性別の意味はない)を良き友だと思っていた。とりとめのない話もくだらない話もしたし、悩みも相談したし、遊びもした。本当に唯一無二の存在だった。今でもそう思っている。未だにブロックされた事実が飲み込めていない。あなたが言った「友達」とはなんだったのだろう。仲直りできたと思ったのは私だけだったのだろうか。
でもそれもそうか。私は彼にひどい態度をとってしまった。せっかくちゃんと叱ってくれたというのに、受け止められなかった。ただ怯えて拗ねる子供になってしまった。彼は対等な相手として接してくれていたのに。
けれども、ブロックしてしまうのはあんまりじゃないか、とも言いたい。これじゃあもう私は手も足も出ない。直接話をすることが叶わない。あなたの真意を問うことも許されないのか。そうか。
タップひとつで簡単に縁を切れてしまうインターネットで友だちをつくるのは難しいということを痛感した。リアルならば物理的に離れるのが難しいから上手くやっていくことを強いられることで友達付き合いは続いていくが、ネット上では簡単に手の届かない場所に行けてしまう。
それが良いことなのか悪いことなのか、私にはわからない。本当に気の合う仲間だけの安全な空間も大切だと思うから。そして彼にはそれが必要だということもわかる。私が彼にとって安全な存在でなくなってしまったのなら去るしかないのだ。
そして、私は私で生きていくしかない。二度と同じ過ちを繰り返さないよう、彼のことを胸に刻みながら。