謙遜という罪

ふと、私のもとを去っていったフォロワーのことを思う。

多少棘はあったかもしれないが、私はただ事実を述べただけであって、それだけで縁が切れてしまうなんて拍子抜けであった。向こうがこちらを気に入っているらしいことも含めるとなおさら。

しかし、たとえ事実だとしても言い方というものがあるし、他者の欠点の分析は、受け取り方次第では悪口として捉えられてもおかしくないことを自覚すべきだった、と今なら思える。好意を無碍にしてしまったことも申し訳ない。

正直に言えば、こんなことで、と思った。しかし今は、決して「こんなこと」ではないと言える。

なぜ私の言動を「こんなこと」と評価することになったかと言えば、それは私が私のことを舐めているからに他ならない。謙遜といえば聞こえはいいが、実態は自分の能力を正しく測れていないだけである。私の言葉は誰かを助けもするし殺しもする、ということを自覚しなければならない。

ところで私の宿痾たる鬱病は、不安によってスペック以上に働かされた脳の疲労、その成れの果てである。つまり常につきまとう不安の思考回路を緩やかにしなければ、寛解は見込めないだろう。

不安とは何かいうと、予想される未来に対して自己の対処能力が下回っている、と感じたときに発動する思考のブーストだ。

よっぽどの場合を除けば、相手はこちらの能力を推し量って仕事を出してくるので、不安というのは未来の不透明さから来るもの、ということになる。ならば、自分がやるべきことを決めてしまえば、後は実行に必要なプランを考える必要に駆られるので、不安などという無駄で曖昧模糊としたものと向き合う必要はなくなる。

タスクの中に休むことも含めておけば、余暇の間に不安に押しつぶされることもない。休むという仕事をこなしているのだから。

そうすると今度は自分のことではなく、環境に対する不安も生まれてくる。が、他者のことなんて予想がつくはずもないのだから、直面してから対応するしかなく、他者に対する不安もまた考えるだけ無駄だ。どうしてもシミュレーションしたくなったら、粗方パターンを紙に書き出して、尽きたらそれきり考えないほうがいいだろう。

自己の対処能力が低いと思っているということは、自分を舐めていることに他ならない。だから不安にもなるし、自分の言葉の持つ力を弱く見積もった結果、相手を傷つけたりもする。

中庸という言葉があるが、何が丁度いいのかはまるで分からない。中間がいいかといえば、そういう話でもない。何事もバランスが大事だ。なんだかんだと考えたところで結論は出そうにもないから、模索しながら生きていくしかないのだろう。

せめて誰かとの関わりが優しいものに、あるいは有益になるように努めていくしかない。