ちょっとだけ居心地が悪くて、けれども息のしやすい世界

正しくありたいと思って生きてきたが、ふと、そもそも正しさとはなんだろう、と立ち止まった。「正しい」の逆は、「間違い」。といっても、算数なら正解が存在しているから、これは正しくてこれは間違っていると言えるけれども、生き方に正解や不正解はあるのだろうか。

ひとつの価値に従って間違いを矯めていったとき、あとに残るそれは本当に私と言えるだろうか。「私」を「あなた」に置き換えても同じことである。

個性と生きやすさは、おそらく相反するものだろう。

個性を尊重すれば、全員が少しずつ嫌な思いをしながら、それでも私のまんまで生きていけるだろう。誰もが生きやすい世の中にするには、最初から型にはまるように教育してやればいい。そうすれば、"違う"ことで悩まずに済む。

正しさが存在している今の世界では、違うことはイコール間違いになる。元の自分を否定し、外側にある価値観に迎合することで、社会を、人生を円滑にしようというものだ。しかし、生き物には一人ひとり個性があるのだから、この考え方は一部の人だけを苦しめることになるのではないだろうか。

「嫌な思い」と「苦しみ」はどう違うのか、と思われるだろう。とくに後者はなんなのか。それは「アイデンティティの危機」である。嫌な思いは数日もすれば忘れることができるが、アイデンティティの危機、すなわちアイデンティティクライシスは日夜ついてまわるもので、諦めるまでは一生の課題として悩み続けることになる。

もちろん、正しさのある世界にも利点はある。正解が用意されているから、何をすればいいのかを考えずに済む。社会側も想定する人間像が少なくて済む。ただし、その利点も型に嵌まることができた人だけが恩恵を受けられるのであり、心身がきっかけでどうしても型に嵌まれなかった人はその理由を自分に求めることになり、大きな苦しみを背負う。

だからこそ、個性を尊重する社会に、生き方になろうと言われているのであり、私もそれに賛同したいと思っている。自分で自分を否定することほど苦しいことはないとよく知っているから。

だからといって、悪いこともそのままにしていいかといえば、それは違う。違うのだけれど、どこまでがいわゆる"間違い"で、どこからが悪いことなのかの線引きがむずかしいのも事実だ。法を元に考えたとしても、法は完璧ではないし、マナーまではカバーしきれない。

とてもむずかしい。むずかしいけれども、もう誰も自分を強烈に否定されたあの気持ちを味わってほしくないとも願っている。ちょっとだけ居心地が悪くて、けれども息のしやすい世界になってほしい。そういう思いで今日も足掻いている。