深夜逍遥

2025-06-09

 古ぼけた重たいからし色の扉がガシャンと音を立てて閉まる。外を眺めながら手探りでドアノブの下にある穴へ鍵を差し込み回し、鍵のかかった音が踊り場に小さく響く。
 今どきサムターンですらない鍵が一つだけ、というのはいかがなものか。そんな苦情が浮かんでは、まあ無くなって困るようなものもないしなと思い直して消えた。
 大きな段差をひとつひとつ降りるごとに、クーラーで冷えた体に熱帯夜のムッとした空気がまとわりつき思わず眉間にしわが寄る。これだから夏は嫌いだ。せめて顔の近くだけでも散らしたくてふーっと息を吹いてみたが、やはり気晴らしにもならず不快感が募るばかりだった。
 最後の段を降りると、規則正しく並んだ鈍く光る郵便ポストが視界の端に入る。投入口を粘着テープで塞がれたそれらに囲まれた僕の部屋のポストには、興味もないチラシが無造作にねじ込まれていた。
 鍵をポケットにしまい、絡まったイヤホンを引っ張り出して耳を塞ぐ。ただここではないどこかへ行きたくて、足任せにふらふらと暗闇へ吸い込まれていった。

 何かを振り切るように、普段は通らない細く狭い道を右へ左へとあてどなくさまよう。
 明かりが落ちたショーウィンドウを、路地の影からなんとはなしにぼうっと眺める。ただの服や鞄に何万円も払って、いったいなにが楽しいのだろうか。そもそもそんな大金なんて持っていないのだから、考えても無駄だと思い直して地面に視線を落とした。静かさに耳がキンと痛くなって、暗闇に輪郭が溶けて曖昧になる。
 季節外れの蛍が一匹、ほのかな黄金色で僕の足元を照らす。迷子のようにふわふわと飛んでいるその光の粒を目で追っていると、琥珀色をした瞳と視線が絡まる。しばらく見つめ合い、なんだか気まずくなって僕は視線をそらす。その瞳の主はどこか勝ち誇ったような顔を見せたあと、おもむろに歩き出した。
 彼についていくのも悪くないかもしれない。しなやかに歩を進める漆黒を纏った彼を、一拍置いて僕はそろそろと後に続いた。

 すすけた外壁の傍に積み上げられたタイヤに彼は飛び乗る。くつろぐその様は、タイヤの山を無骨なスツールのように仕立て上げる。
 その近くに僕はしゃがみ込んで辺りを見回した。車もまばらな閑散とした駐車場、その一角が集会会場になっていた。
「君の仲間かい?」
 右耳のイヤホンを外しながら問いかける。少し悩むような素振りを見せたあと、彼は黙ってそっぽを向いた。
 そっか、君も一人ぼっちだったのか。盆のような月の眩い光に照らされ浮かび上がる彼の小さな背中。その後ろ姿を見つめながら、言葉はなくともそう直感した。

 再び歩き出した彼の背中を追いかけると、ブランコやシーソーが見えてきた。僕が子供の頃に好きだったのは地球儀──回転するジャングルジムのようなもの──であったが、安全性が問題になり撤去されて久しい。
 月に照らされた頬を雨粒が叩く。辺りに厚い雲もないしすぐ止むだろうが、いつの間にか家も近いし走って帰ろうかと悩んで僕は歩みを緩めた。
 少し前をゆく彼が立ち止まり、振り向いて視線をよこしてから駆け出す。これは「ついてこい」の合図だ。この数時間で分かった、数少ない彼のジェスチャー。
 公園の奥まったところに藤だろうか、つるを這わせたパーゴラが灰色の景色に緑を添える。葉っぱの屋根に守られて乾いたベンチには、先に着いた彼がすでに座っている。すぐ隣に腰掛けると、ずっと感じていた蒸し暑さが不思議と和らいでいった。
 静かでおだやかな世界に二人きりみたい、なんて。そんな訳ないと分かっているけど、今だけはその錯覚に浸っていたいと願いながら僕は静かに瞼を下した。

 小鳥のさえずりが、黎明の空に曙色の輝きを連れてくる。そろそろ帰らなければ。名残惜しく思いながら、僕はそろりと腰を上げた。
「じゃあ、またね。」
 声をかけ、公園を出る。歩道に出ていくらかすると、僕を追いかけるように彼の小さな足音が聞こえてきた。なにか忘れ物でもしただろうかと考えながら振り返る。
「にゃあ。」
 彼は一言、そう言った。
 月の光を受けて金色に輝くビロードのような瞳と、闇に溶け込む烏の濡れ羽色をしたなめらかな毛並み。透き通る鈴を転がしたような声音。そんな黒猫が、僕の新しい友達だ。

 ポストから取り出したチラシに目を通してみると、マンションやアパートの物件情報が目についた。猫も一緒に住める物件に引っ越すのもいいな。朝日に照らされた階段を軽やかに駆け上った。

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