死について
なぜ人は自殺するのか。よくある問いだ。では逆に訊こう、なぜ生き続ける人間は自殺を選ばないのか。死を恐れるのか。
私としては、「死」そのものは怖いものではない。死ねば内臓は機能を停止し、電気信号もホルモンも無くなる。そうすれば、怖いと思うことすらなくなる。意識を持つことは、苦しみと切り離すことはできない。意識がなくなるということは、即ち苦しみから解放されるということだ。
こういう意見もあるだろう。苦しみだけではなく、楽しさや嬉しさもあるだろう、それを手放すのか、と。快楽は苦しみを和らげる麻酔だ。しかし、それだけだ。麻酔が切れれば、やはり痛む。
腹が減ったからご飯が食べたいとか、高いところは怖いから平地に立ちたいとか、そういうものと並んで、苦しいから死にたいと思う。しかしただでさえ苦しいのに、物理的な苦しみを経なければ死に至れない。ならば適当な麻酔でごまかそうか、と思い、死を延期する。
取り立てて嫌なことがあった訳ではない。悲しいこともない。親には愛されているし、文章を読んでくれるひとはいるし、やりたいこともできている。それでもふとした瞬間、死にたくなる。〈非-存在〉へと還りたくなる。空無への望郷の念。
生き続けることは正しいことなのだろうか。意識を持つ者は皆生きている。生が多数派で、だから正しいことだと無条件に信じ込んでいるだけではないか。殺すことは悪だから、死もまた悪いものだと思っているだけではないか。自殺を批判するとき、そこに「羨ましい」という感情が無いと断言できるか?
なぜ親しい生き物が死ぬと悲しいのだろう。この悲しみには、論理以前の何かがあるように思う。
以前、ゴールデンハムスターを飼っていたことがある。120グラムの小柄な子だった。その子が死んだ後、ペット専門の葬儀屋で葬式をあげた。あの日は、とにかく泣いた。よく晴れた日だった。もう五年は前のことである。またハムスターと暮らしたいと思えるようになるまで、五年かかった。
なぜあんなに泣いたのだろう。もう会えないからか、未練や後悔か。否、そういった類のものではない気がする。死者を弔う儀式では泣くべきだ、と遺伝子に刻まれていれるような感覚がある。そう、泣いたのは葬式でのことだ。死んだ直後は、泣かなかった。
そもそも悲しみとは何なのだろうか。
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