無限回廊

2025-02-08

 古ぼけた大きな時計がある。それは埃を被っていて、硝子は煤けており、針はどこかに行ってしまい、もはや時計の体を成していない。それでも、振り子は律儀に揺れている。
 ボーン、ボーン、ボーン。
 この時計曰く、三時らしい。真夜中の三時だ。
 懐中時計を出そうとして、やめた。どうせ、もはや、時間などという概念は無効だ。この世界は、夜が支配してしまったのだから。
 吹き抜けの上、ドーム状のはめ殺しの窓。そこから、白い月と黒い月が浮かんでいるのが見える。月が観ている。月に観られている。否、それは錯覚でしかない。ふたつの月は、私のことなどお構いなしに空に浮かんでいるだけだ。それでも、視線を感じる。やはり観られている。月でなければ、一体何に?
 ──魚だ。魚が居る。
 それも無数の、夥しい数の魚だ。
 もちろん、それは剥製である。此処に生きた魚など、居るはずもないのだから。
 魚は宙を泳いでいる。優雅に。美しく。華麗に。
 魚が私を観ている。
 虚な眼で、私を観ている。
 私も魚を見つめた。
 刹那、世界は私と魚だけになる。
 ──海だ。海がある。
 海では、魚がぎこちなく泳いでいた。滑稽だ。見るに耐えない。醜悪極まりない。
 時の止まった魚たちは、きっとその時初めて自由になったのだ。時間という檻から脱して、永遠になったのだ。
 ボーン、ボーン、ボーン、ボーン。
 私は不自由だ。それを思い知らされた。
 魚の剥製に飾られたフロアを出る。

 一直線の廊下だ。
 消失点まで続いている。
 やはり、この廊下もまた、自由だ。
 私は、アール・デコ調の装飾が施された扉を選び、開ける。
 遠くから喧騒が聞こえる。
 がらんとしたコンクリートの部屋をずかずかと進み、窓へと向かえば、眼下に不夜城の如きサイネージが並んでいるのが見えた。人人は、大きな声で笑っている。彼らはきっと、目を逸らしているのだ。己が不自由であることが耐えられないから、笑って誤魔化している。現実からの逃避。絶え間なく。不断に。逃げ続けるのだ。走れ、走れ、追いつかれないように。
 肩を叩かれる。
 振り向けば、影が佇んでいた。
 影が私に笑いかける。
 私はそいつを睨みつけた。
 影の横を通り過ぎ、廊下に戻った。

 暫く歩いて、ぶよぶよとした半固体(半液体?)の扉らしきもの──つまり空間と空間とを区切り、通り抜けられるもの──を通過する。
 白い棺桶が並んでいた。
 棺桶の蓋は存在しないが如く透明で、中で眠る人人がよく見える。
 彼らは、私たちは、やはり不自由だ。
 感じる筈のない腐臭を感じて、吐き気が込み上げてきた。マスクを外し、そこらにぶちまける。吐瀉物は、パリパリ、と音を立てて凍りついた。
 行儀良く並んだ棺桶を順繰り順繰り眺める。
 その中に、私によく似た人が居た。
 この世界には、自分を含めて三人、ほぼ同じ顔貌をした存在が居るという。名前が個人を識別するための記号に過ぎないように、顔もまた記号に過ぎないのだ。そんなものに拘泥して何になると言うのか。
 棺桶の蓋をそっと撫でる。
 私によく似たそれが、笑った気がした。
 私も笑った。

 空調服のバッテリー残量を確認する。まだ半分はある。歩けばもう少し充電されるだろう。
 廊下の窓の外は、何もない。
 それは、砂漠だとか、草原だとか、密林だとか、そういう類の話ではない。本当に何もないのだ。虚無である。虚無のなかに、ぽつぽつと何かが浮かんでいるのが見える。スペースシャトルの残骸、木乃伊みたいな死骸、朽ちた人工衛星、パンとワイン。
 私は窓を開け、そのパンとワインをマジックハンドで掴む。そして窓をきっちり閉じる。
 マスクを外せば、廊下の埃っぽい空気が喉を刺激して、数回咳き込んだ。
 パン、それは主の肉体。
 ワイン、それは主の血。
 主とは一体誰のことを指しているのだろうか。私はそれを知らない。
 パンはいいだけ乾いていた。そりゃあそうだ。虚無に投げ出されれば、水分など消し飛ぶ。
 ワインボトルを傾け、空中にワインを出す。宙にふよふよと浮かんだワインを口に含む。
 赤ワインの芳醇な香り。
 窓の外に浮かぶガラクタを肴に、ワインを飲んだ。
 ぽかぽかとした体で、散歩を再開する。

 木製の扉に手をかける。
 どうやら鍵がかかっているらしい。先生から貰ったマスターキーで解錠する。
 目が眩む。
 煌煌と輝いている。
 ──星だ。星屑だ。
 目が慣れてくる。部屋を見渡すと、ショーケースの中に星屑が所狭しと並んでいる。それは小さな隕石であり、宙から齎された宝石である。太陽の無い今も、自ら発光して輝いている。ショーケースの蓋を開け、きっと誰かの宝物だったろうそれらを不躾に摘む。星屑はざらりと砂になった。
 宝石たちの中に、ビー玉みたいな個体を見つけた。慎重に持ち上げ、口に含む。
 ひんやりとしている。
 光の味がする。
 宝石は口の中でするすると溶け、跡形もなく消えた。
 全部壊してしまおうか。
 綺麗なものというのは、終わりがあるからこそ綺麗なのだ。だから、私の手で終わらせて、これらが真実綺麗だったことを証明したくなった。
 ショーケースに手をかけ、ひっくり返す。
 パキーン。
 ぱらぱら。
 ガシャン。
 星は砕け散り、輝きを失う。
 これで彼らも自由になった。
 一個だけ、どう頑張っても瑕ひとつ付かない星があった。きっと、これは最初から永遠なのだろう。そういうこともあるらしい。懐中電灯の代わりにすることにした。

 廊下に出ると、跫が聞こえた。
 脚のホルスターからナイフを取り出す。
「ああ、やっと会えた。おや、酒に酔っているね」
 なんてことはない、相棒だった。ナイフを仕舞う。
「ああ、たまたま外にワインが浮いていてね」
「そりゃあよかった。そうだ、さっき部屋でレーションを拾ったんだ。食うべ?」
「ご相伴に預かろうじゃないか」
 異国の言葉でカレー味と書かれている(らしい)パッケージを破り、棒状のレーションに齧り付く。
 スパイスの良い香りがする。すこしぴりりとした。丁度空腹が満たされた。
 私は先ほど手に入れた、割れない星屑を取り出す。
 相棒は目を細めた。
「良いものを拾ったねえ」
「だべ?」
「これで、はぐれずに済みそうだ」
 この廻廊──廻廊とは呼ばれているが、何かを囲っている風ではない──での遭難率は高い。それでも、こうして今もなお珍品が眠っているから、探索しにくる者は多い。
「そういえば、さっき影に遭遇したさ。何もなかったけどね」
「そりゃあおっかないな。この玉でえいやっとやれないものかね」
「ああ、この星で? できそうだな」
 その使い道は思いつかなかった。さすがは私の相棒である。

 さああ、と霧雨が降っている。
 振り向くと、森の真ん中に扉だけがぽつねんと立っていた。
 ぬちゃぬちゃと跫を立てながら獣道を行く。
 暫く歩くと、獣道は二つに分かれた。
 私は少し迷った後、なんとなく右に行くことにした。
「僕は右を行くよ」
「じゃあ、僕は左を」
 鬱蒼とした森だ。地面には、何やらよく分からないうねうねとした茸が生えていて、その近くに大きな芋虫が這いつくばっている。多分、あの茸は不味いだろう。視線を少し上げると、いくつもの背の高い木に、いくつもの蔦が這っている。見上げると、遥か上空に木の先端と葉が見えた。空に届きそうなほどの高さがある。時折風が吹いて、バキバキと音を立てながら木が撓った。
 唐突に、開けた場所に出た。
 私の顔より一回りも二回りも大きなフキの葉(らしきもの)がわさわさと生えている。その葉の上にはやはり芋虫が居て、静かに葉を食んでいた。
 更に進むと、人工的に拓かれたと思しき場所が見えたので、そちらに足を向ける。
 そこはどうやら果樹園のようで、りんごによく似た実がたくさん生っていた。瑞々しい見た目をしている。手に取ると意外と柔らかく、どちらかと言うと桃を連想させた。
 チェッカーの針を刺してみる。無毒。糖度十四度。
 いくつかもぎって、鞄に入れた。
 やっと気がついたのだが、前に進むたび、時間を早回ししたように太陽がどんどんと沈んでいっている。後ろに進むと、太陽が逆行して昇る。ここはとても小さな星なのかも知れない。
 夜の空間を通り過ぎると、入ってきた時と同じ扉に辿り着いた。
 椅子を展開して、相棒が戻ってくるのを待つことにした。
 マスクを外し、先程の、りんごだか桃だか分からない果実に齧り付く。じゅわ、と果汁が溢れて、頬を伝い、首まで濡らした。
 確かに甘い。甘いということしか分からない。何にも似ていない、独特な味がする。
「あ、いいな、おいしそう」
「おお、おかえり」
 相棒に謎果物を手渡す。
「うん、うまい」
 ふたりで一頻り味わった後、扉を抜けて廻廊に戻った。

(続)

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