『西の魔女が死んだ』への反感
この本を読むのは3度目だ。1度目は小学生の頃、夏休みの読書感想文の宿題がきっかけだった。
物語の中で、魔女になるには「自分の意志」が重要だ、と語られる。つまり、女性のエンパワメントの物語なのだろう。
結論から言うと、私とこの本はひどく気が合わない。読んでいて腹が立つ。だというのに、世間では評判がいいので、さらに腹が立つ。そんな関係性であることを踏まえたうえで、以降の文を読んでほしい。
主人公のまいは、ゲンジさんという近所に住むおじさんのことを嫌っている。ゴミ出しに行ったまいが、ゲンジさんが捨てたであろうエロ本を見て嫌悪するシーンがある。初読の感想はもうすっかり忘れてしまったが、「よくわからないシーン」として飛ばしたようにも思う。女の裸=エロ本という図式が私の中には無かったのである。
エロ雑誌というと、伯父のことを思い出す。伯父の寝室にはその手の雑誌が転がっていた。小学生だった私は、それらを見てはいけないものとして無視し、発売されて間もないスマートフォンを伯父から借りて、ただひたすらお札をめくるだけのアプリだとか、ボウリングのゲームだとかで遊んでいた。
察するに、まいの母親はその手のエロコンテンツに嫌悪感を示すタイプの人間なのだろう。対してうちの母はというと、ママ友が息子に「女にチン毛って生えるの?」て聞かれて返答に困った話をした上で「私だったらマン毛って言うけどな」と自分の子供に話すような奴なので、そんな親の薫陶を受けた私はエロに対して嫌悪することはなかった。ちなみにこの話をきちんと理解したのは最近で、それまでずっと「ワン毛」と聞き間違えており、腕なのかな、いや違うよなあ、とずっと思っていたのだった。
エロコンテンツに対する私の態度というと、むしろ「禁止されたもの」として好奇心がバリバリ働き、ひとりで留守番をする日は、当時買ったばかりだったWindows7でエロ動画を検索して「これがセックスですか……」とひとり関心していたものである。そしてこれまた買ったばかりの3DSのブラウザ機能で、閲覧制限に引っかからない虹エロ画像サイトを見まくっていた。立派なエロガキである。
そんなエロガキなものだから、まいに共感する余地が全く無い。なに急に怒ってんだこいつ、としか思えない。思えないが、この本が称揚されるということは、世の”女子”は共感するのかな、と考えてみたりする。
”女子の共感”という点でいえば、クラス内での派閥のくだりもそうだろう。私はそういうのに疎い人間だったので、これもまた分からないのだ。
そして、そういう雰囲気のクラスに馴染もうと努力するのがばからしくなった、という理由で学校を休み、そんな在り方を肯定してくれる存在が身近に居ること、ここが最も腹が立つポイントだ。私にはそんな存在いなかったよ。この一言に尽きる。綺麗事言いやがって。私の人生に魔女は居ない。
これは、元から大丈夫な人が一歩踏み出すための物語であって、大丈夫じゃない人を支えるための物語ではない、と言われればそれまでなのだが、大丈夫なら物語がなくたって勝手によろしくやってくれるだろ、と思ってしまう。
文庫本の初版が2001年ならば、執筆されたタイミングはさらに前ということになり、その時代にはこういった物語が必要だったのかもしれない。しかし、今の現実はむしろ「意思持つ女性」が持て囃されて「おじさん」は嫌われ者になっていやしないだろうか、と思うのだ。なんだかゲンジさんのことが気の毒に思えてしまう。確かに短慮な発言もあったがそれをおばあちゃん本人に言った訳でもないし、商品として出されたグラビアを消費しているだけだし、そこまで悪しき存在のように描かんでもよくないか?(もちろんその後フォローがあった、とはいえ……)
とりあえず纏めると、不登校という状態への切実さが無いし、「女」と「男」という対立をどう……という視座も無いし、私にとっては良い作品とは思えない、という話でした。
※コメントは最大500文字、5回まで送信できます